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ポピュリズム

最近は新聞や各種メディアを見るととアメリカのトランプやフランスのルペンなど

ポピュリストに対する批判を必ず目にする。そしてその批判はポピュリストだけでなく

それを支持する人達にも行っている。彼らを直接は批判してはいないが、遠回しに馬鹿

にしたり文句を言っている。

またある授業で「教育水準を向上させればポピュリズムはなくなるのでは」という発言

をしている人がいた。なんとももっともらしい言葉だけど、本当に問題はそんなに簡単

なのか、とつい疑問に思ってしまう。そしてこういうことにいうひとに限って現実を見

れていない気がする。今回はポピュリズムについて思ったことをいくつか書いていく。

 

①ポピュリズムを支持する人達への批判

どの新聞もポピュリズムの支持者はおおよそ「ブルーカラー、高卒、低所得、保守派

、社会のメインストリーム」とセグメント化されている。上述の通りメディアは遠回し

にこういう人たちへの批判を繰り返す。だが、本当に彼らは悪いのだろうか?中国の

WTO加盟後に多くの2次産業の仕事が中国にアウトソーシングされて結果的に仕

事が奪われた彼らは社会のセーフティネットがほぼない状態で放り出される。そしてローンまみれの生活を送らざるを得ない。こんな状況は自分でも嫌だ。そうかと思い大統領選の候補を見ると、共和党の候補者は特にだが多くの候補者はかれらを助ける政策について言及しない。興味があるのは外交問題や世界経済の問題だけ。これじゃどんな人でも頭に来る。低学歴とかそういうのは関係なく。そこで2人の救世主が現れる。一人は極左でもう一人は極右。主義は違えど2人とも自分たちの生活の保障、雇用回復を明言してくれる。これだったらどんな人も2人を好きになるに違いない。この思考・心理は学歴や仕事に関係なくどんな人でも持つはずだ。

本当に大事なのは、こういった思考を持つことを防ぐ「教育」の改善などではなくこういった状態に人々が陥らないようにする政策・制度の設計ではないのか。

現にこないだのオランダ選挙では予想外にもポピュリスト政党自由党は躍進しなかった。オランダは非正規雇用と正規雇用の立場が極めて平等で、失業してもセーフティネットがしっかりしていることで有名だ。国の規模から考えて、アメリカよりもvolatilityが断然大きいにも関わらずポピュリストは躍進しなかった。このことは上記の自分の言説の根拠だ。

スイスも同じだ。近年はほかのヨーロッパの国々と同様に極右政党が躍進しているがその勢いは大したことがない。その主な理由はスイスの低い失業率・強いセーフティーネットであろう。

今回は経済的な側面から分析したが、移民問題に関しても同じことが言える。

移民の増加に対して国を挙げてこれらの対策をした国とそうでない国とでは選挙の結果が異なる。

social inclusionという言葉が近年よく使われるが、社会から置き去りにされた人をなくすのがまず大事だと思う。

ちなみにヒトラーが躍進した1930-40年代のドイツの教育水準は当時のヨーロッパの中でも有数の高さであったらしい。いかに教育がポピュリズムの阻止に対して無力かがはっきりわかる。

②支持者のセグメント化

上記の通り、支持者は大体社会の下層階級にいる人々だと考えられているし、現にそうであると思う。一方で、社会の上流階級(高所得、高学歴)の中にもポピュリストの支持者もしは対抗勢力の不支持者は一定数いる。

自分のフランス人の友達で私立の高いビジネススクールに通っている人がいる。彼は政治経済に関する知識が豊富だ。当然マクロン支持者かなと思ったが、そうではなかった。かれはルペン支持者であった。わけを聞くと、マクロンはマニュフェストが不明瞭で非現実的であるのに対しルペンははっきりしている。しかもどうせルペンが大統領になっても移民追放などはまず議会の反対で成立しないから大した悪い影響は起きないとのこと。なるほど理にかなっている。こういう人はフランスにすくなからずいるに違いない。また、パリの東大シアンスポにルペンを支持する学生団体があるのは有名だ。

アメリカでもヒラリーが負けたのは反トランプだけどヒラリーは支持しない人が多かったことは有名だ。彼らの多くは4年後の選挙でサンダース氏を大統領にするキャンペーンを行っている。非常に懸命な考えであると思う。

このように支持者は一概に社会の下流階層だと決めつけるのは間違っている。

③批判の矛盾

極左と極右の内、批判されがちなのは後者だ。トランプにルペン、ウィルダースなど。

でも非現実的かつ扇動的なことを言い支持者を獲得するのは両者ともかわらない。どちらも立派なポピュリストだ。なのに批判は常に後者に向けられる。これは矛盾している。逆に極左は英雄扱いされることが多い。こういう批判をする人は自身が客観的になろうとするあまりいつの間にか主観的になっていることに気づいていないのかもしれない。ちなみに同様にポピュリストであったルーズベルトとレーガンはともに今でも熱狂的に慕われている。

論理はぐちゃぐちゃだが、言いたいことは主にこれら3つの事。

これからも世間一般で「所与」と思われていることを疑い、考えそして批判していきたい。

ヨーロッパとアメリカについて

 

自分は昔アメリカに3年間住んだことがあり、今はヨーロッパに住んでいるわけなのだが、両者は色々な面で異なっている。

まずは言語。アメリカ人は基本的に英語以外話せない。高校や大学などで外国語を習うらしいがまず彼らがそれを使っているのを見たことがない。それに対して、ヨーロッパの人たちは少なくとも3つの言語は話せる。しかもどれもかなり高いレベルで。英語はほとんどの人が上手かれ下手かれ話せ、第2、3外国語もそこそこ話せる。正直うらやましい。英語が少し話せるからと言って調子に乗っていた過去の自分を思い出し恥ずかしくなった。

2つめは雰囲気と性格。一般的にアメリカ人は「陽気、おしゃべり」なのに対しヨーロッパ人は「寡黙で穏やか」という感じだ。空気を読むことなど、日本人に少しだけ似ているところがあると思う。典型的なアメリカンな性格の人間はヨーロッパではあまり好まれないように思える。

留学する前までは、アメリカとヨーロッパにここまで違いがあるとは思ってなかった。「欧米」という言葉が示す通り、両者は基本的に文化は同じであろうと思っていた。しかし留学序盤でフラットメイトや友人らと話しているうちにその違いに気づいた。自分の中では面白い発見であった。

そして何よりもヨーロッパ人の方が歴史に精通している。さすが2千年近くずっと戦いをしているだけある。彼らはヨーロッパ史以外にもアフリカ史やアジア史にかなり詳しい。どこか一緒に観光しても、その地史に興味を持っているところを見るとそれを大変実感する。「ここは大戦中にフランコによって爆撃された場所なんだ。だから俺たちカタルーニャ人はこの屈辱を忘れないようにと爆撃の跡をそのままにしているんだ。」とカタルーニャ人の友達が物悲しし表情で語っていたことは記憶に鮮明に残っている。

その点、アメリカ人はそこまで歴史に精通していないように思える。もちろん中には歴史が好きな人はいるがそれはごく一部で、まず話してて歴史の話で盛り上がることはない。やはり国自体がここ200年くらいでできたからなのか。

何が言いたいかというと、意外とアメリカとヨーロッパは文化面で異なっているということ それからその違いが主に上の3点に集約される。こんなことを知ったからと言って何かのためになるわけではないけど、そこそこ興味深い内容であると自分で確信している。

旅行について。

1.

最近自分は旅行するときにバッグなどを持ち歩かずに手ぶらで旅行する。

なんといってもそっちのほうが楽だし財布などを盗まれる危険がとても低い。

しかしなんといっても、「地元目線で旅行できる」のが自分の中で最大の利点である。

リュックやバッグを持って歩いているとなんだか気分が落ち着かない。どうしても自分自身がザ・観光客に思えてしまう。しかし手ぶらならそういう感情が一切なくなる。気分は落ち着くし、客観的に見ても恰好だけならそこらの地元の人々と変わらない。そしてそういう感情は不思議と自分の旅行者としての視点にも影響してくる。手ぶらでいると、単にみんなが見るような観光スポットだけでなくみんなが注目しないような魅力に気づく。マルセイユでぶらぶら旅行している時に、たまたまロンシャン庭という美しい庭園の存在に気づいた。そこはトリップアドバイザーなど観光用のメディアでは注目さ

てないものの、マルセイユの重要な歴史を物語る魅力的な場所であった。何より地元の人々がそこでたむろしているのを見て、ここは普通に観光客目線で旅行していたら絶対に気付かなかっただろうな、と思った。こんな感じで、普通の観光に飽きた人には手ぶらで旅行することもおすすめだ。

2.

自分の最近の最大の発見は 旅行先の地元の友人に案内される旅行はとても良いものである ということだ。ツアーやガイドなしでは自分でどこを訪れるか、どこで飯を食うかなどを全部調べて決めなくてはならない。それに観光客を良いカモにしてぼったくるレストランが結構あったりする。これはレストランに限らずちょっとした店などでもそうだ。これでは労力、時間そして金の大損だ。

しかしだからといって大勢のツアーやガイドが良いかというとそうとも限らない。

ツアーの場合は見るものがあらかじめ限られているから自分がその場の雰囲気を楽しむ時間がどうしても少なくなる。自発的に楽しむのでなく、「サービスが彼らから与えられている」感じがどうしてもしてしまう。(かなりわがまま。)しかも彼らの場合、お得なレストランなどよりもどちらかというとtouristicで高いレストランしか紹介してくれない。

そこで最近は、現地にいる友達に案内してもらうことにしている。彼らと観光すれば観光客目線でなく地元目線の観光を味わえる。単に有名な、皆が行く場所ではなく歴史や文化の詰まった場所を案内してくれる。しかも地元に人な人気の安くてぼったくりなどの無いレストランを紹介してくれるから一挙三得だ。

3.

自分はtouristicな雰囲気が大嫌いだ。せっかく自分が見たいものを見に行っても他の

観光客が大勢いると気分が萎える。しかもこういう場所には大抵、なんとなくみんな訪れているからという理由で訪れている観光客が多い。例えば、前に行ったバルセロナのグエル公園。ガウディの建築はたいして歴史もないしバルセロナ独特な文化のコンテクストにマッチしていないということを知っていたので、もし観光客が少なくて入場料無料なら行ってみるか程度の気持ちで行ったものの、いざ行ってみたら観光客だらけでしかも入場料は8ユーロ(ホステル一泊8ユーロ)だからアホらしくなって結局公園には入らなかった。正直のところ、この公園は建築の美しさ以外の魅力を見出せなかった。自分にとって歴史や文化のコンテクストを理解せずに観光することは論外だ。要は自分は観光に関しては根っからのひねくれ者なのだ。しかし、こんな性格だからこそ本当の意味で観光を楽しめる。バルセロナで行った、スペイン内戦の際の弾痕がそのまま残っている教会の前で、過去の内戦やカタルーニャ人がいかに内戦を屈辱的に感じているかなどを一人その場で想像していた。もちろんこんな場所に観光客など来るわけない。だからこそ一人で観光を楽しめるのだ。

 

 

NHKドラマ 東京裁判を観て思ったこと。

 

ついこないだ、NHKで放映していたドラマ「東京裁判」をYoutubeで観た。

内容は裁判に出た11人の判事の裁判を巡る対立・葛藤などを描いたものであった。

さすがはNHKとだけあって、クオリティはとても高かった。バカみたいにドラマ性や下手な演劇力を求める民放の歴史ドラマとは違い、こちらはより事実を忠実に再現していた。

このドラマの中では「人が戦争を裁くことができるのか。」というのが大きなテーマだった。

ドラマでは判事らが決して一枚岩ではない事いわれた。理由は各自の判事の意見。

2.その中でもパール判事・ベルナール判事の意見は注目に値。前者はそもそも日本の侵略を「パリ不戦条約」に違反していないとして無罪、後者は侵略の罪(平和に対する罪)は存在せず一般的な戦争犯罪として取り扱うべきだという事を主張。時代の流れを気にしてさっさと有罪にしようとした多数派判事らとは一線を課していた。

3.今まで東条英機らが死刑になった事などは知っていたが、東京裁判の中身を全く知らず「戦争に負けた日本の指導者らは当然罰せられるべき」という雰囲気でスムーズに裁判が進んだのかと思ってきたがそうではなかった。これは意外と皆知らないんじゃないか。

4.確かにいわれてみれば、アメリカだって空襲や原爆などもろ「人道に対する罪」を犯しているわけで、「戦争に勝ったから結果オーライ」感はめちゃめちゃある。

5.しかも「公正」に開かれるはずの裁判の判事・裁判長がみんな連合国側なのもおかしな話だし、戦争が罪として裁けるのかどうかという問題も怪しい。

6.こんな感じで、今まで自分が何の疑いもしなかった事を考えるようになった良い機会にあった。もしかしたらNHKは自分みたいに今まで東京裁判について、上に書いたようなことを考えてこなかった人たちに考えさせたかったのかもしれない。

内的思考と外的思考

 

冬休みももうすぐ終わり、明後日から授業が始まる。最近は旅行したり本を読んだりと自由気ままに活動しているが、こんな自由な時間も終わってしまうと思うと少し悲しい。けれども、新しい友人を作れるのは嬉しい事なので楽しみにしてよう。

 

さて、今回は自分が以前から自分の中に秘めていたアイデアを書こうと思う。

自分は考え事をするのが大好きだ。どんなジャンルの事もだ。最近のテーマは「民主主義の国による相性について」。民主化は大事だ とか何とかいう人がいるけどイラク情勢とか見たら一概にそんなこといえないよね、ロシアとか中国とかむしろ歴史的に考えても民主主義じゃないほうが国は安定するし良いよね、というのが主な内容だ。そんなこんなで考え事をしていると、現実世界で起きていることをついつい忘れてしまう。こないだは大学から考え事をしながら自分の家に帰っている最中に、不覚にも大学に忘れ物(スーパーで買った食材)を置き忘れてしまった事を思い出し、猛ダッシュで取りに戻った。こんな感じで、考え事をしてしまうと脳が勝手に外の世界の情報をシャットアウトしてしまう。脳が考え事に手中するためにわざとそれをシャットアウトしているようにも思える。これをここでは内的思考と呼ぶことにする。

一方自分の友達には上記のような事を議論したり話すことは好きではないけれども、新しい情報に敏感で、何事も器用にでき、常に興味があることに挑戦している人が何人かいる。彼らも勿論考えながら生きているが、彼らの場合は外の世界の情報を積極的に取り入れて、それらを積極的にアウトプットする(行動に移したり他人にその情報を伝える)ことを好んでいるように思える。これも立派な思考であるけれど、外の世界の情報をシャットアウトしていない・考え込まないという点で内的思考とは全然違う。これをここでは外的思考と呼ぶことにする。

別にどちらのほうが良い・悪いという事を言うつもりはなく、むしろこの両方が必要なのじゃないかなと最近おもった。

内的思考の弱点は、考え事をしている段階で考えていることが抽象的になりすぎてしまい結果的に何の解も生まれない事であると思う。上に書いた「民主主義の国による相性について」だって、内向的思考だけでは自分なりに仮説をたてることしかできず、これを外の世界の情報(統計データや具体例)を使って実証することが出来ない。単なる自慰行為になってしまうのだ。これでは何の意味もない。

逆に外的思考だけあってもそれはそれでだめだと思う。これの理由はまだ自分の言葉では説明できるレベルではないけれども。(笑)

自分は明らかに内的思考を重視しすぎているタイプなので、今後はもっともっと良い意味で思考を放棄して生きていこうと思う。

そしてこんなことを思いついたときに「外的思考 内的思考」とググったら、心理学者のユングが同じようなこと(自分なんかよりも全然すごい)を言っていたことに気づいた。いつの時代も人間考えることは大体一緒なんだな。そう思った瞬間であった。

UN SDGsに対する胡散臭さ。

 

ウィーンに旅行した時、案外見るものが少なかった&観光に飽きたので国連センターに見学に訪れた。ここはNYに本部がある国連のヨーロッパ支部のようなもので、IAEAの本部があることからもわかるとおり、テクニカルな面に特化している。その意味で、総会や安保理などのザ・国連的なイベントが行われるNY,主に人道支援に特化したジュネーブとは一線を課している。

さてこの国連センターの内部で無料ツアーをやっていると聞き、早速ガイド(多分国連職員。話した感じ頭良かった)に案内されてセンター内を見学した。ツアーはいつも1回に15-20人くらい人がいるみたいだけど今回は運よく自分とNYから来たおばちゃん1人の2人だけだった。

さすがテクニカルな面に特化しているだけあって、世界中の色んな統計やデータベースを管理するシステムが充実していた。しかもIAEAの総会の議場も見れたのでなかなか充実したツアーであった。

ツアーの最後に、国連が最近出した17のSDGs(持続可能な発展のための目標)が壁に貼ってあったので、17全てに軽く目を通した。そしてふと疑問が生まれた。

「これいくらなんでも欲張りすぎじゃない??」

そう思ったのは、SDGsが①貧困の撲滅 ②不平等の改善 ③平和 ④持続可能な都市づくり ⑤ジェンダーの平等化 ⑥生活の質の向上 などあまりに多すぎる目標を掲げているからである。人権、貧困、環境、経済、平和、生活の質... 正直これら全てを解決しよう!というのはどこか傲慢さを感じてしまう、、、

自分だってこれらすべてが実現してほしいと心から思う。しかし、現実はそんなにうまくいくものなのだろうか。そもそも全ての国はそんなinterestを持っているのだろうか。

こういうことをガイドに聞いたら「じゃあ逆にこれらが実現しないという先行事例はあるのか?」と言われあっという間に論破されてしまったが、それもそれで苦しい反論だ。きっとこの人も心のどこかでこれに疑問を抱いているに違いない。そんなことまで考えてしまった。

アメリカでトランプが大統領に就任し、早速とんでもない大統領令を下して世界が混乱している。最近の新聞はトランプのニュースでいっぱいだ。彼のような「現実主義者」的な考えが世界に蔓延して、他国と協力し合いSDGsを達成する気力をなくす国が生まれることがないよう切に願っている。

印象派との出会い。(後編)

 

さてオルセー美術館の作品に魅せられた自分であるが、前述のように印象派の作品と日本美術との共通点(「自然描写」と「写実性(完全性)」)がその主な理由だと自分の中で考えた。今回はこの内容をより掘り下げて話そう。

一旦絵画から離れて、今度は東西の代表的な庭園の比較から上記の共通点を紐解こうと思う。

日本の代表的な庭園といえば金沢の兼六園が挙げられる。それに対して自分がヨーロッパに来てから見たもので代表的なものはヴェルサイユ宮殿の庭園とシェーンブルン宮殿のそれである。両者の決定的な違いは、前者は自然を「主役」として捉えているのに対し後者はそれを「脇役」として捉えている事ではないかと思う。というのも、日本庭園の場合確かに自然(木々や岩など)は整備されてはいるが極力人の手を加えずにそのありのままの魅力のみを活かそうとしているように見える。つまり自然は「主役」なのである。対してヨーロッパの庭園は完璧なまでの幾何学模様を目指し、自然はその模様全体を構成する一部に過ぎない。あくまで「脇役」なのだ。ヴェルサイユ宮殿では木の形までもが完璧な四角錐や球体であった。そして、日本庭園は別に何かしらの完全な形を求めていない。それに対してヨーロッパの庭園は完全な幾何学模様・各広場の構成など永遠に変わることのない完全なものを目指しているように見える。

こんな感じで、西洋の芸術は自然を「客体」として捉えて「永遠なるもの」、つまり曖昧性を排除したもの を目指すのに対し、日本の芸術は自然を「主体」として捉えて「はかないもの」、つまり曖昧なもの を目指しているように思える。そして後者は観る人の主観を重視するのに対し、前者はそれを排除する。こんな感じの対比構造が導き出せる。色々こねくり回して全体がごちゃごちゃになってしまったが、要はこういうことだ(笑)

印象派の作品に見入っているときに、過去に印象派の画家らが日本の絵画(浮世絵)からインスピレーションを得たという事をどこかで聞いたことを思い出した。