UN SDGsに対する胡散臭さ。

 

ウィーンに旅行した時、案外見るものが少なかった&観光に飽きたので国連センターに見学に訪れた。ここはNYに本部がある国連のヨーロッパ支部のようなもので、IAEAの本部があることからもわかるとおり、テクニカルな面に特化している。その意味で、総会や安保理などのザ・国連的なイベントが行われるNY,主に人道支援に特化したジュネーブとは一線を課している。

さてこの国連センターの内部で無料ツアーをやっていると聞き、早速ガイド(多分国連職員。話した感じ頭良かった)に案内されてセンター内を見学した。ツアーはいつも1回に15-20人くらい人がいるみたいだけど今回は運よく自分とNYから来たおばちゃん1人の2人だけだった。

さすがテクニカルな面に特化しているだけあって、世界中の色んな統計やデータベースを管理するシステムが充実していた。しかもIAEAの総会の議場も見れたのでなかなか充実したツアーであった。

ツアーの最後に、国連が最近出した17のSDGs(持続可能な発展のための目標)が壁に貼ってあったので、17全てに軽く目を通した。そしてふと疑問が生まれた。

「これいくらなんでも欲張りすぎじゃない??」

そう思ったのは、SDGsが①貧困の撲滅 ②不平等の改善 ③平和 ④持続可能な都市づくり ⑤ジェンダーの平等化 ⑥生活の質の向上 などあまりに多すぎる目標を掲げているからである。人権、貧困、環境、経済、平和、生活の質... 正直これら全てを解決しよう!というのはどこか傲慢さを感じてしまう、、、

自分だってこれらすべてが実現してほしいと心から思う。しかし、現実はそんなにうまくいくものなのだろうか。そもそも全ての国はそんなinterestを持っているのだろうか。

こういうことをガイドに聞いたら「じゃあ逆にこれらが実現しないという先行事例はあるのか?」と言われあっという間に論破されてしまったが、それもそれで苦しい反論だ。きっとこの人も心のどこかでこれに疑問を抱いているに違いない。そんなことまで考えてしまった。

アメリカでトランプが大統領に就任し、早速とんでもない大統領令を下して世界が混乱している。最近の新聞はトランプのニュースでいっぱいだ。彼のような「現実主義者」的な考えが世界に蔓延して、他国と協力し合いSDGsを達成する気力をなくす国が生まれることがないよう切に願っている。

印象派との出会い。(後編)

 

さてオルセー美術館の作品に魅せられた自分であるが、前述のように印象派の作品と日本美術との共通点(「自然描写」と「写実性(完全性)」)がその主な理由だと自分の中で考えた。今回はこの内容をより掘り下げて話そう。

一旦絵画から離れて、今度は東西の代表的な庭園の比較から上記の共通点を紐解こうと思う。

日本の代表的な庭園といえば金沢の兼六園が挙げられる。それに対して自分がヨーロッパに来てから見たもので代表的なものはヴェルサイユ宮殿の庭園とシェーンブルン宮殿のそれである。両者の決定的な違いは、前者は自然を「主役」として捉えているのに対し後者はそれを「脇役」として捉えている事ではないかと思う。というのも、日本庭園の場合確かに自然(木々や岩など)は整備されてはいるが極力人の手を加えずにそのありのままの魅力のみを活かそうとしているように見える。つまり自然は「主役」なのである。対してヨーロッパの庭園は完璧なまでの幾何学模様を目指し、自然はその模様全体を構成する一部に過ぎない。あくまで「脇役」なのだ。ヴェルサイユ宮殿では木の形までもが完璧な四角錐や球体であった。そして、日本庭園は別に何かしらの完全な形を求めていない。それに対してヨーロッパの庭園は完全な幾何学模様・各広場の構成など永遠に変わることのない完全なものを目指しているように見える。

こんな感じで、西洋の芸術は自然を「客体」として捉えて「永遠なるもの」、つまり曖昧性を排除したもの を目指すのに対し、日本の芸術は自然を「主体」として捉えて「はかないもの」、つまり曖昧なもの を目指しているように思える。そして後者は観る人の主観を重視するのに対し、前者はそれを排除する。こんな感じの対比構造が導き出せる。色々こねくり回して全体がごちゃごちゃになってしまったが、要はこういうことだ(笑)

印象派の作品に見入っているときに、過去に印象派の画家らが日本の絵画(浮世絵)からインスピレーションを得たという事をどこかで聞いたことを思い出した。

印象派との出会い。(前編)

今月の12日から16日にかけてフランスのパリに友人と旅行した。友人の一人は日本人(先輩)、もう一人はパリ近くに住むフランス人であった。フランス人の彼のおかげでかなりスムーズに観光はできた。話を聞く限りフランス、特にパリはあまり治安の良い場所とは言えないのでもしパリに旅行する場合はヨーロッパ人できればフランス人と一緒に旅行することをお勧めする。

さて本題についてだ。自分の文章はいつも回りくどくかつ分かりにくくなってしまう傾向があるので先に結論を言うと、「今まで自分が観てきた西洋美術とは全く異なる印象派に出会い衝撃を受け、印象派の大ファンになった」わけだ。

自分はヨーロッパに留学する前まで、ヨーロッパ美術特にギリシアローマ・ルネッサンス時代の写実的かつ壮大な作品を観るのを楽しみにしていた。高校生の時に世界史の副教材でそれらの写真を初めて見たときに感動して以来ずっとだ。しかし、いざヨーロッパに着き休日などの合間をぬって美術館や博物館などに行きそれらを観た正直な感想は、「意外とそうでもない、、、、。」だった。(笑)

確かに最初に見たときの迫力はすごかった。でも、なぜかほんの短時間で見飽きてしまう。「今まで見てきた写真とそこまで変わんなくね?」「確かにめっちゃ写実的だけど、それで終わりだ。。」こんな思いしか生まれなかった。自分の期待は裏切られたわけだ。自分が期待しすぎたのも悪いのかもしれない。(笑)

この思いはパリのルーブル美術館に行った時も変わらなかった。

ミロのビーナスにサモトラケのニケ、モナリザ、ナポレオンの戴冠にメディウス号の筏 ...。いずれも自分が高校生の時から絶対に死ぬまでは目にしたい、と思っていた作品であるが、まあ感動しない(笑)(笑) しかもルーブル美術館はEU以外の国籍の人だと15フランも取られる。正直キレそうだった。(笑)15フランならケバブ4本(多くて5本)、ラーメン2杯も食える(ヨーロッパに来てから物を買う時の基準がラーメンからケバブに変わった)。観光客を呼び寄せたいのならもっと安くすればいいのに、とも思ったがよくよく考えればそんなに安くしなくとも普通の観光客はそれでも行きたがるだろうから、正常っちゃ正常な価格かもしれない。

話を元に戻そう。そんなこんなで、自分は何でここまで有名な美術品に感動しないのか疑問に思い、ある仮説を立てた。1つは「写真でもうすでに見てるから期待値が高すぎるから。」で、もう1つは「日本・東洋の美術的感性との違い」である。

後者の仮説に関して詳しく説明する。もともと自分は日本の伝統的な芸術作品(特に水墨画)が大好きだ。これら日本の伝統的な芸術作品と西洋のそれとの決定的な違いは「自然」と「写実性」にあると思う。日本の伝統的な美術作品といえば、例えば葛飾北斎の浮世絵や雪舟の水墨画などが挙げれられる。これらの作品に共通するのはどちらも自然が必ず人間よりも強調して描かれていていることと、どちらもそこまで写実的でないことであると自分は考える。確かにどちらも自然の描写はとても丁寧だが、写実性を求めているようには思えないし実際写実的ではないと思う。つまり不完全なのだ。

一方、西洋のそれはこれの逆だ。ギリシアローマ時代の彫刻は人間のみが題材にされ、自然は全く描写されていない。モナリザやミケランジェロの天地創造などは自然は描かれていることは描かれているが、あくまで主体は人間である。そしてこれらは全てここまでかというばかりに写実的である。まるで写真のようである。

この両者の違いのために自分は感動しないのではないか。そういう仮説を立てた。そしてこの仮説はオルセー美術館に行ったときに確信に変わる。

オルセーで初めに観たのはミレーの日傘の女。これも高校生の時には見たことはあるが、その時はそこまで気に留めなかった。有名っちゃ有名だけどモナリザなどに比べたらそこまでではない。だけど、この作品は期待値をはるかに上回った。なんといっても自然描写、特に光と影の描き方がとても美しい。女性の足元に広がる草原もそこまで写実的でなくてよい。そして何より油絵であるため写実的な絵ではない。あえて写実性を排除してるともいえそうだ。この作品のみでも「自然」と「写実性」に関する自分の仮説が正しいように思えたが、この作品のみでは結論づけることはできなかったのでもう少し他の作品も観ることにした。

次に観たのがモネのエトルタの日没。これも大変美しい作品だ。「自然」に関しては、夕焼けの空と海と大きな崖がこの作品の主体である。「写実性」に関しては、前作と同じく油絵であるためそこまで写実的でない。これも期待値をはるかに上回った。

そんなこんなで、色んな印象派の作品を大好きになったわけだが、これらの作品を見ると自然とその絵の実際の場面が想像される。気温に匂い、音だ。そして自分は、自然描写と曖昧な描き方がこの「想像力」を引き出しているのであろう、と結論付けたのである。

続きは後編へ。

留学生活で一番悔しい日。

 

 今ある授業でグループワークでレポートとプレゼンを作っているのだが、このグループワークの中でちょうど留学生活史上最大に悔しい体験をした。

 まず、グループワークとはいえど自分以外の2人は二人ともマネジメント学科の修士でかなり優秀である。それに対して自分は経済学部でマネジメントやビジネスに関してはひよっこ程度の知識しかない。その時点でかなりの差があることが分かる。しかし、知識どうこうの話よりも彼らは圧倒的に仕事ができる人々なのだ。人の話をしっかり聴き自分の意見を筋道立てて言えることは言うまでもなく、ただ現在の作業をテキパキ行えるだけでなく常に未来のこと(この場合はプレゼンの完成図)を考え、それを基に逆算して常に考えていた印象があった。それに対して自分は、人の話をしっかり聴きとることすら危うく、さらには現在自分が行っていることに夢中になり未来の事などは何も考えずに行動している。そんな対比図が明確に浮き彫りになったグループワークで会った。確かに今までもグループワーク役立たずであった時はあったが、これほどまでに自分の無力さを痛感したことはない。自分が全くと言っていいほどグループの役に立てないのが悔しい。

 そしたらどうすればよいのか。まず考えられるのは「彼ら2人からフィードバックをもらうこと・それをしっかりと受け止めること」だ。特に後者が大事である。現実から逃げず、現実を受け止めよう。それが第1段階だ。

 次に、そのアドバイスを基に日頃の自分の欠点を浮き彫りにしよう。

そして最後に、来期も積極的にグループワークの授業をとろう。その時は、以前までのような脇役一方にならず自分が主役になれるように活動しよう。

 

 今回は貴重な体験をし。留学してからあまり挫折を経験してこなかったものだから、今回の挫折を最大限に活かし自分の成長の糧にしたい。

トランプ大統領選出人に思う事。

 

アメリカで次期大統領がトランプ氏に決まってから約1か月がたった。

約1か月前、自分はモロッコ旅行の最中に選挙の結果をfacebookで知った。まさかとは思っていたが、彼が次期大統領になってしまったのだ。COP22にしろ偶然会ったおじさんからクストーのことを知ったことにしろ、あの旅行は観光以上のものがあった。こういった副産物は旅行ならではのものであろう。

さて、トランプ氏と過去のいわゆる煽動的な政治家らについてふと思ったことがあったから気の向くままに書いてみようと思う。

過去の煽動政治家の代表例といえばまず自分の中で思いつくのは「ヒトラーとムッソリーニ」である。そして近年ではややポピュリストとは異なるがプーチンやエルドアンが思いつく。彼らに共通しているのは「経済政策における成功」だ。ヒトラーはどん底にあったドイツ経済を大規模な公共政策により立て直し、プーチンも冷戦後に大混乱していたロシア経済を石油商売の利益で立て直した。他に名を書いた政治からも何らかの形で国内経済の回復に大きく貢献したのだ。そしてこの経済の回復を受けて当時経済的に苦しんでいる人々はかれらに感謝し、彼らは大衆の人気を集めるようになったのである。つまり経済の立て直しはポピュリズム的政治家とは切っても切り離せないほどの強い関係性があるのだ。もしプ―チンが国内経済の再建に失敗していたら現在ほど人気率は高くなかったであろう。

トランプ氏は「大規模な公共政策、中低所得者に対する税金カット」など経済的に苦しんでいる人々にとって大変響きの良い政策を公約しているが、もしそれらが実行されたとした場合にそれらの政策が成功するかは未知数だ。もし成功したら、それは大変恐ろしい結果を招くであろう。国民はトランプ氏を信奉するようになり、彼の言うままに動くようになる。まさに「第2のヒトラー」が生まれる可能性があるのだ。このような結果はなんとしても防がねばならない。逆にここで彼の経済政策が大きく失敗してくれば、トランプ氏を支持していた人間は目を覚まし、トランプ氏に対するそれまでの期待は大きく下がるであろう。そうすればアメリカの民主主義は守られることになる。

もっとも、アメリカが上に挙げた国々と大きく違う点は、世界No.1の大国として民主主義を守る余裕がまだあるという事だ。今回の選挙は投票数はヒラリーのほうが多かったし上記国々に比べるとそこまで経済的に困窮しているわけではない。だが、今回トランプ氏に投票した人々が目を覚ますことに越したことはない。どっちにしろ彼の経済政策は失敗したほうが良いのである。

政治の問題は変数やパラメータが多すぎて、考えれば考えるほど問題が複雑化して混乱するときもある。だがこのようにあまり深く考えなくとも思いつけるシンプルかつ比較的合理的な意見を生み出せる。大事なのは「時間的・空間的な違いの中で共通点を見つける事」である。

国語が昔から苦手で文章を書くのが下手な自分はであるが、文章を書くこと自体は昔から嫌いではない。このように自分の思ったこと・考えたことを言葉にするのは大事な作業であると思う。